少し前の深夜、Taroさんと話していた。最初はえっと何の話だったか・・・ボケ入ってる?ちょっと酔っ払いモードのmomoだけど、話し出すと長いのはmomoのほうかもしれない。
このところ移植医療と透析に関わる本を読んだばかりで・・・そのうちこれは別に書きますが・・・その話になる。
わたしはTaroさんのために何も出来ないし、手も足も出ない。口は挟むけど・・・まあ、あの調子でmomoの話を聞いてるだけなんだから、あまり効力はない。それでも、momoはどうしても力が入ってしまう。
移植医療・・・今後どうなるんだろう?これに関しての答えはまだ出てこない。うちに限って言えば、ぢろさんが移植を受けようと受け入れないことには、移植も何も、先には進まない。
では、どうしてこんな理不尽にも見える?現状なんだろう。わたしは親を亡くしていないから、近親者を見送っていないから、冷たいのだろうか?それとも持てるものの驕りだろうか?
街では今募金箱が置かれている。心臓移植のために渡米したい男の子を救うための募金・・・。これにお金を入れることが出来ない。彼が救われるのならそれでもいいが、
「移植を待っている患者さんはたくさんいる」。
momoは納得していない。パキスタンの募金も、中越地震の募金も、福岡の地震にも日本赤十字を通じて幾ばくかのお金を募金した。まだ、報道機関でも振込先を流していない時期から、振込先をWebで探したり、そんなことぐらいしかmomoやぢろさんには出来ないから。
時々、募金活動虚しく・・・移植できる時期に間に合わずに亡くなってしまう移植希望者もいる。臓器移植ネットワークも立ち上がり、脳死移植法も改正までして今日に至っているのに、医療水準が移植のために渡航する国より劣る日本ではないのに。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051109-00000029-kyodo-soci
この意識の低さはどこから来るのだろうか?
momoはドナーカードを携帯しているし、ぢろさんも一応持っている。どちらもお互いのカードに署名しているから、両方一度に亡くなった時にどうなるかは知らないけど。
# 透析患者だって、角膜ぐらいは使えるのでは?と思ってる
自分の身に降りかかる何かがないと、やはり臓器摘出は簡単には出来ない人の心の「道理」があるのだろうか?別に宗教的な理由があって、ドナーカードを持たないのならそれでもいい。でも本人の意思が反映しないのなら、持っていても無駄だとTaroさんは言う。やはりそうなんだろうか。
ぢろさんが導入で入院している時、momoの母が言った言葉を思い出す。
「わたしのをあげようか?」
momoを不憫に思ったのかもしれない。でも、数えられないくらいの献血をしてきたmomoの母である。マリア様のような?すばらしい母とは思わないが、そう言われたときはさすがに泣きそうになった。momoの父母が透析導入になったら、momoは冷たい娘だから、きっとぢろさんにあげたいからごめんなさいというのに。
Taroさんは移植に希望を託していない。でもね、momoは出来るなら生体間移植より、脳死であれ死体腎であれ、もっと臓器提供が普通になる将来があるのでは?と思いたい。momoがぢろさんに提供しないで済むのであれば、momoの腎臓はmomoの最期に必要な人に移植されればいいのだから。
いま、持っているドナーカードではぢろさんに「わたしがどんなに願っても」腎臓を譲ることは出来ない。それでもなお、momoは自分の意思としてドナーカードを携帯する。
お莫迦な話かもしれない。そんな世の中を望んでも、無駄なのかもしれない。でも、Taroさんの辛さを軽減できるのなら、ぢろさんがもう1度美味しく食事を取れるのなら、
「終わりなく辛いガマン」だとTaroさんが思ってる透析を替わってあげたいと思うし、食べたいものをガマンし続けているぢろさんに
「本当に美味しいものを食べさせてあげたい」、それがmomoの願いである。
誰にも届かない願いかもしれない。それでも、強く願い続ける。それがいまのmomoに出来ることのすべて・・・。
momoの(健常者の)驕りだろうか?それとも傲慢だろうか?押し付けがましいお節介なんだろうか。くどいmomoはTaroさんと話し出すと、結論がないままに眠る夜が多い。
こうして何度も書き直すこの時間、Taroさんはまだ病院で、帰り支度も出来ない時間・・・。